昭和四十八年六月十四日 信心の心得
「真の道に居りながら真の道を踏まぬ事。
信心の道に居り乍ら真心にならぬ事と云うことでしょうねえ。真の道を踏まぬ事と仰るその真の道とはどういう事を云うのであろう。真の道を踏んで行けば真の道が開けて来る。真のおかげがいわば頂けて来ると云う程しのことだと思います。
ですからどうしても真の道を体得して、真の道を踏んで行くと云うこと。
その真の道と云うのは、我情我欲と云うものでもない。ここで間違えてならないことは、例えば昨日久留米の佐田さんが頂いて居られますように、大曲がりに曲がって居る道が間違って居る道と云うことではない。
真の道とは、まっすぐ行く道と思うたら、それこそ間違い。道が付いて居るのですからこう曲がっとるところも色々有るのですからその道を行けばいいのです。
それを何と云うでしょうかねえ。修養道とでも申しましょうか。儒教からきた思想ですねえ、例えて申しますと梨下に冠と云った様なことを申します。梨畑の脇を通るときに冠の紐が緩んだっちゃ紐を結び直すなと、手を上に上げるなと。そげなこつしよると、はあーあれは梨をちぎったと云うて疑われるぞと云うような生き方。
瓜畑で靴の紐を結ぶなと云った様なこと。靴の紐を結びよると瓜をちぎりよるかと思われるぞとこう云うような生き方。
だからそんな馬鹿な話はないですよ。こちらが真の道さえ通って行きよれば、例えば梨畑の下であっても冠の紐が緩んだら結ぶのが真の道なのだ。靴の紐が緩んだら仮にそれは瓜畑の近所を通っておっても結ぶのだ。只自分の心にやましいものがなかったらそれでいいのだと、それが真の道。
だから修養的ないわゆる人間心で云う道ではないと云うこと。どこまでも神乍な道と云うことになりますねえ。真の道とは・・・
だから修養の道では決して無いです、金光様の道は・・・
それは信心の道を修養すると云うことは言えますよ。修め養う。信心の教えを頂いてその教えを行ずると云うことは言えますけれども、普通で言う修養道とは違う。だから普通の道徳的なものではないです。信心の道と云うのは・・・云うなら超道徳であり超修養であります。それが真の道、ですから道を歩いて居ってそれが大曲がりに曲がっておるならば曲がった通りに歩いて行かなければいけない。それをまっすぐまっすぐと云うて行きよるけん、田圃の中やら山やらにぶつかって行く訳です。そんなもんじゃない。
ですから問題は信心しよってあれでいいじゃろうかと云った様な場合もありますよ。
まだ私が御本部へ月参りをさせて頂いて居るときでした。いつも親先生のお供をするのですけれども、そん時には私はどういう事だったでしょうか。福岡から電車でそれから大城へ出て大城から歩いて帰った。軍服に雑嚢かろうてそしてお参りしておる時代。大城の電車から降りてちょっとばかり行って右手の方へお百姓屋さんがある。と云うのは、私電車から降りたら非常に小便に行きたくなったんです。ところがもう絶対御地内を汚すといった様なことをそれこそ汽車の中でも・・・・
今はね、御本部参拝するでもそれこそ何回となしに立たせて頂くのですけれども、仮に汽車の中でも地内を汚すことになるからもう絶対行きませんでした。あの時分月参りをしておった方達なんかは、だからもう各駅の中に便所が有るところを皆さんが覚えておって走って便所に行ったもんでしたね。
私共は勿論前の日から水気をとりませんから御本部参拝の時に小便に立ったことが有りませんでした。
例えば御地内をみだりに汚すなと云うことだけにでも徹底しておた訳です、云うならば。
そげんしよるうちにまあ、便意を催しますから、どこか便所借りる所はないだろうかと思うたけれども何処もない。そしたら今云うちょっと行った所に右手にお百姓家があります。
丁度表に籾か何か干してありましたからそういう時期でした。ところがお百姓さんには外の入口に小便所がありましょうが、だからそこを借りて用を足して帰って来よったら、後ろから若い人が一生懸命追いかけて来ますもん、「ちょいと待たんの、ちょいと待たんの」と私は自分に言われとると思わんもんじゃから、そしたら「逃げ出しなさんな」と言う訳ですよ。逃げる訳じゃないけれども、追いかけてきた人がです、私に「あんたは今私げに入っとったが何の用があって来とったか」と、誰か近所の人か何かが、あんた方には妙な格好したのが入って来よったばのとか何とか誰かが注意したらしいのです。だから私が泥棒と間違えられた訳です。
それから追いかげられてきたわけです。それに家に入った訳じゃない、手前の方にある便所ですからね。小便所だけの所ですからもう入った訳じゃない、只便所を借りただけなんです。
それは私は教えに徹しておった時なんです。それから誰からか聞かれて、あんた方に今妙な奴が入りよったがと云うことじゃなかったでしょうか。
それから追いかけて来てから、その呼び止められますから「何でしょうか」と云うたら、「私はここの者だけれども私げに入ったが何の用が有ったですか」と、こう云う訳なんです。まあうさんくさそうに・・・「はあーどうもすいません。実は私はお宅の小便所を借ったんですよ」と云うたら「小便ならああたそけまりゃよかろうもん」と。そうですよねえ、もうお百姓さんの人はもう道端じゃろうがどこじゃろうが尿意をもようしゃ、それは男でも女でも例えば道端ででもやるのが普通ですから。
「そげなこつ云いなさるなら、いよいよお話せにゃ分からんですけれども、私は金光様の信者です。とても御地内を汚すなよと云う生き方を私がしとりますもんですから、どこか便所はないだろうかと思いよったら、丁度道から入ってすぐの所に便所があるからお宅の便所を借りたばかりです。」
「金光様の信者ちゃ、ああたどこの金光様の」「善導寺です。」「そんならそこの近所に誰々さん誰々さんと信心なさる人があるが知っとるかですか。」「はー知っとります。古賀さんと云うて県会議員の方がある。」と云うて初めて解放されたことがある。という様な例えば笑い話の様な事もです、有ります。真の道を本気で行じようと云うときには、いわゆる梨下に冠とは違うでしょう。
けれども、私の信心の心と云うものはもう神様の方へ貫いて行こうというのです。誰あれもおんなさらん所でいくら外にあるお便所であっても、ここ借りよったら余計な疑いどんかけられちゃならんからと、云った様なことは全然問題じゃない、私には・・・只御地内を汚さんで済むと云うことだけが有難い。それに徹しておることが有難いと云う時代なんです。だから真の道とはそうい道なんです。 だからやはり超道徳であり超修養である。いわゆる人間心を使うていく道ではなくて、どこまでも神乍らな道なのです。
と云うて、そんなら人間の道を外れたことをすると云う意味ではない。それは大切にすると云うことは粗末にせぬことだと教主様が仰っておられるように手元のところを全ての事を実意をもって大切にしていくと云うことは勿論です。けれども修養道と違うというところを皆さん今日は分かって頂きたい。
同時に真の道と云うのは答に於てです、心の中に喜びがあり心の中に安らぎがある。
私が例えばそういう様な一つのエピソードですけれども、人に疑われる様なことなんかもう問題にしていない。御地内を汚さないと云うことだけに焦点を置いて貫いておる訳です。
信心の道、そういう教えを行じておるのです。まっすぐにこうやって行かんならん、成程信心の道と云うことは、いわば直いことだ。直いと云うことはその道を歩いて行くと云うことなんだ。だから
曲がっとるなら曲がっとる所をこう歩いて行かなければ大変です。それを道はこう曲がっとるけれども、まっすぐ行くのが信心だと云う様にまっすぐ行きよると田圃の中渡ったり橋の無いところに川を渡ったりせんならん。
遅配欠配での時なんかに例えば、昔の闇なんかは絶対にせんと云うた人が、かつえ死にをしたと云う人が有りますね。栄養失調で、そんな馬鹿な話は有りませんよ。例えばそん時に闇をしてでもやはり頂いて行くのが本当なんです。
だから信心の道といわゆる真の道、今迄私共が修養道、云うならば儒教からきたところの考え方、思想、これはもう私どんから云うたら大間違いの道なんです。しかもそれを例えば、立派な生き方だと、だから昔から清貧に甘んずると云った様な事を申しますね、清い貧乏と云うことなんです。云うなら曲がったことはせんと云うのをです、例えば闇はせんと云った様なことの様に考えてまっすぐい道なら絶対貧乏の続く筈はないのです。まつ直い、いわゆる真の道ならそれはその日暮しでありましても、その日その日のちゃんとお恵に欲して行くことの出来る道が真の道なんです。
同時に真の道を行じさせて頂くと云うことはです、心にいつも安らぎが有る。私は今日だけは御無礼してかあ、例えばその当時ですよ、その当時私がそんなら何処かで畦道ででも小便しとったら、もう私の心は穏やかではないでしょう。自分で自分が苦しむでしょう。 例えば疑われてから追いかけられて来てもです、「はあーおかげを頂いてよかった」と今でもこうやってその時のおかげ話として出来るように、信心の道と云うのはそういう道だと。真の道とは、そういう道だと。
人が見たらあげなことしてと云うても、私の心の中に安らぎがあり喜びがあるならばです、それは真の道なんです。そういう心におかげがあるのですから、清貧に甘んずる必要は有りません。甘んずる事があってよかろう筈が有りません。
只今修行中、いよいよ大きなおかげを頂く前には必ずお試しが有る。そのお試しのところを通っておる場合は別です。けれども、それもです、これで行き詰まったと云う様な道じゃないです。もう必ず道は開ける、真の道と云うのは。
云うならば、真の道の今日は見解を聞いて頂きました。
修養の道では決して有りません。但し実意丁寧、何事にもです、大切にすると云うことは粗末に、おろそかにすると云うことではありません。
考え方を、その道が大曲に曲がっておるならばです、それは曲がった事じゃないです。その道を歩くのが真の道を歩いておるのです。 問題は自分の心の中にその大曲の道を歩いておっても、安らぎがあるか、信心に徹しておる喜びが有るかと云うことが答なんです。
私がその時代、例えばお百姓さんの家の入り口の便所を借ったと云う笑い話の様な話ですけれども、真の道とはそうういう道なんだ。 真の道に居り乍ら真の道を踏まぬ事。
こうする事が信心だ、けれども人間心を出して、あの人の手前もあるから義理があるから人情が有るからと云う様な義理人情で動くような道は真の道じゃありません。
そこでは場合によっては非人情、場合によっては不義理な人だと人から例えば言われてもです、神様の前には義理を立てていく。神様の前には、神様の教えには背かれないと云う生き方が真の道です。
信心をさせて頂きよりますとね、そういう普通の義理を欠がなければならないような事がある。何故かと云うと、そんならあちらから誰々さんから招待を受けておる。ところが丁度合楽の御大祭であった。御用日であったと致しましょうか、そういう時に大祭の方へそんなら教会の方へやって参りますと本当に不義理な人だと云うことになります。けれども、神様の方取っていきよればおかげになる道なんです。それが真の道なんです。
それを人情使うて、いわばあちらの手前がある人の方ばっかり考えとる。そこを例えば、私は仮令神様から、人から笑われても悪口言われても神様から笑われてはならんと云うのが私は真の道だと思うのです。
それを辿らないと心に安心が湧かないです。例えばこちらが不義理な事をしてもです、神様の方を辿ってご覧なさい、心の中にああよかったと云う安心と喜びが必ず起こるです。その心におかげがあるのですからね。 どうぞ。